ページの先頭です

入間川の筏流し

[2014年8月11日]

筏流しの歴史 ―いかだながしのれきし―

筏流し再現時の様子1

 飯能市の名栗地区(なぐりちく)、原市場地区(はらいちばちく)などの入間川上流の村々では、山から切り出した木材を筏(いかだ)に組み、江戸(東京)に盛んに流送していました。消費地である江戸から見ると「西の川筋から流されてくる木材」なので、『西川材(にしかわざい)』と呼ばれるようになったと言われています。
 筏流しがいつからおこなわれたか、はっきりしたことはわかりません。江戸幕府開府以降、町づくりや、度重なる江戸の大火の復興のために、江戸時代初期から木材を送っていたと言われていますが、それを示す資料は見つかっていません。現在見つかっている筏関係の文書は正徳3年(1713)のもの(狭山市・山崎忠男家文書)が最古で、この時点ですでに多くの筏が流されていたことがわかります。
 これ以降、筏に関する文書は数多く残されていますが、ほとんどが筏の通行をめぐって下流の住民と対立した争論に関する記録です。下流の住民は入間川の水を田や水車に引くための堰(せき)をつくり、また、入間川を漁労(ぎょろう)場所などに利用していましたが、これらが川を下る筏の障害となったため、争いが絶えませんでした。
 明治時代になっても筏流しはますます盛んで、その出荷量は「西川十万石(27,800立方メートル)」と呼ばれていたそうです。明治期で筏流しがもっとも盛んであったのは明治20年から40年にかけて、日清・日露戦争による木材需要が急増した時期だったといわれています。
 大正4年(1915)に飯能-池袋間に武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)が開通すると鉄道による木材輸送が始まりました。また、道路が整備され、山方から飯能まではトラックで木材運搬が行われるようになり、飯能駅周辺には材木業者が多く店を構え、製材や取引はここでおこなわれるようになりました。これにともない筏流しは減少し、大正末から昭和初めごろを境に完全に姿を消したといわれています。

筏流しの経路 ―いかだながしのけいろ―

 入間川上流の山々から切り出された材木は土場(どば 材木の集積場所)に集められ、出水があり次第、筏に組まれて流されました。上流から飯能河原までを「山川(やまっかわ)」と呼び、1枚か2枚を1人で乗り下げました。飯能河原では「山川」の2人分の筏をつなぎ合わせ、1人乗りで入間川を下っていきます。名栗から出発した半分の者はここで引き返し、これで1日分の行程でした。飯能河原の北側にある河原町には筏師(いかだし)が休息したり宿泊するための筏宿(いかだやど)がありにぎわっていました。
 飯能河原から荒川との合流付近までを「下川(しもっかわ)」と呼び、普通の水なら1日で行けますが、途中、用水堰(ようすいせき)などでトラブルがおきたり、水が干上がってしまって何日も足止めをくうこともありました。筏師は伊草(いぐさ)、福田(ふくだ)、菅間(すがま)、老袋(おいぶくろ)などで泊り、ここで筏をさらににつなぎ合わせ、8~12枚を1人乗り、あるいは24枚(1艘)を2人乗りで千住へと向かいました。
 荒川本流を「大川(おおかわ)」と呼び、途中で一泊し、下流に向かうと満潮時は潮を待ち、引き潮になると夜中でも筏を出して千住まで下りました。筏は潮にのるとぐんぐん流れていったといいます。
 こうして、名栗を出発して平水ならば5日目に千住に着いたといいます。

筏流しの経路
山川

筏の単位

1枚(まい)
 筏の最小単位。幅3~4尺(0.9~1.2m)、長さ7~10間(12.7~18.2m)くらい。入間川の筏は幅が狭いのが特徴です。

1艘(そう)
 24枚を合わせて1艘と呼びます。また、12枚を「半艘(はんそう)」とよびました。

筏の構造 ―いかだのこうぞう―

筏の構造

 飯能河原より上流の「山川(やまっかわ)」は川幅が狭く、急流で、曲がりくねったり岩が突き出た場所があるため、筏の幅が広いと途中でつかえてしまいます。そのため1枚の筏の幅は3~4尺(0.9~1.2m)、長さ7~10間(12.7~18.2m)と、細長いものでした。筏には主に杉の丸太を組んだ「丸太筏(まるたいかだ)」と、角材を組んだ「角筏(かくいかだ)」がありましたが、丸太筏の方が主流でした。また、筏の上には貫板(ぬきいた)や板材、杉皮などの上荷(うわに)を載せ、一緒に運んでいました。

特徴

(1)刻印(こくいん)

刻印

 持ち主がわかるように、材木一本一本に墨で刻印をつけます。印は荷主ごとに決まっていて、それを他人に貸すのを禁止する仲間同士の取り決めが何度もなされていました。

(2)メド穴

メド穴

 「メド切り」という専用の道具を用い、材木の端に穴を開けます。メド穴に藤つるを通し、腕木に結び付けて固定します。

(3)スクネ

スクネ

 筏の両側にはスクネと呼ばれる直径3~7寸(9~21cm)の雑木を取り付けます。これは途中で岩などにこすって材木が傷つくのを防ぐためです。

(4)腕木(うでぎ)

腕木

 材木の途中数箇所を腕木と呼ぶ太さ1寸~1寸5分(3~4.5cm)ぐらい、長さは筏の幅より少し長い雑木を途中に数箇所横たえ、藤つるで材木と固定します。

筏を流す時期―いかだをながすじき―

筏を流す時期

 入間川では一年中筏を流していたわけではなく、川の水かさが増えたときを見計らって流していました。
 春になり、水が出る頃になると、元締(もとじめ)が筏師(いかだし)を集めて岩石や砂利を除去して筏が円滑に流れるようにします。上名栗の事例では、この時期に雨が降ると人足の算段をし、ミズタケ(水深)が5寸(約15cm)増えると筏を組むのに大わらわであったといいます。
 筏を流す時期は「春の彼岸から秋の彼岸まで」と言われていましたが、江戸時代の筏出しの控帳や水揚帳(みずあげちょう)などを見ると、2月~5月(上期)と8月~12月(下期)(旧暦による)に集中しています。夏の渇水期をはさんで上期は春の増水期から梅雨時にかけて、下期は秋の増水時から冬の渇水期前までで、主にこの時期に筏を流していたことがわかります。

万延2年(1861)「筏注文帳」(名栗村町田家文書3942 学習院大学史料館蔵)から集計した月別の筏川下げ枚数 →

筏流しの苦労―いかだながしのくろう―

 のどかに川を下っている筏に見えますが、川の途中には自然の難所や障害物などがあり、流すには苦労したようです。

自然の難所

 名栗から飯能河原までの「山川(やまっかわ)」は川幅が狭い上に岩やカーブも多く、流れも早いため、筏を操るのは大変難しく、危険も伴いました。竿(さお)1本だけで筏の進む方向を制御するため、熟練が必要でした。竿さばきを誤ると岩に激突したり、岩につかえて流せなくなってしまいます。筏師が特に気をつけなければならない難所がいくつか言い伝えられています。

三百岩(さんびゃくいわ)

三百岩

 岩頭が水面すれすれにでていて、ここに乗り上げてしまうと最後、川の真ん中で立往生してしまったといいます。1人でははずすことができず、近くの人に大勢頼んで助けてもらったそうです。礼金として銭300文を支払う慣わしになっていたことから「三百岩」と呼ばれました。写真は「三百岩」があったと言われている付近(飯能市小瀬戸)。

吸い込み(すいこみ)

吸い込み

 飯能市の小瀬戸(こせど)と久須美(くすみ)の境のカーブで、上手に操らないと筏が吸い込まれて、出るのに苦労したといいます。写真は「吸い込み」付近の川。

堰(せき)

現在の矢颪堰

 飯能河原から下流の「下川(しもっかわ)」では川幅が広く流れも緩やかになりますが、途中には田や水車に用水を引くための堰(せき)、川の普請場(ふしんば)、渡船場(とせんば)や橋、漁撈のための網(あみ)などさまざまな障害物があり、筏の乗り下げは容易ではなかったようです。
 このうち最大の障害物は、川の途中に設けられた堰でした。天保3年(1832)の文書には当時の堰として、田に水を引くための用水堰が18箇所、水車のための堰が10箇所あったとして、一覧をのせています(名栗村教育委員会『名栗村史』p154)。この中でも、矢颪(やおろし)・川寺(かわでら)・笠縫(かさぬい)・岩沢(いわさわ)・仏子(ぶし)・笹井(ささい)・黒須(くろす)にある堰は「七堰(ななせき)」と呼ばれ、筏1艘(そう)につき124文ずつ通行料を支払わないと通過できませんでした。その見返りとして、筏が通れるように堰の一部を2間余り(約3.7m)開けておく約束になっていました。

写真)現在の矢颪堰

「岩沢村全村地籍図」に描かれた岩沢堰

 明治10年(1877)の「岩沢村全村地籍図」に描かれた岩沢堰(中央に「筏通し」と思われる通路が見られる)

筏に関する信仰や言い伝え

 入間川流域には筏に関する信仰の場や言い伝えが残されています。そのいくつかを紹介しましょう。

弁天祠(べんてんほこら)飯能市原市場

弁天祠

 白髭神社下流の大きな岩の上にある弁天祠で、筏師(いかだし)が中心となり、水難にあわないようにと祀ったと言われています。

梅宮神社の山神祠(やまがみほこら)狭山市上奥富

梅宮神社の山神祠

 この祠は上奥富の河原新田で管理していましたが、昭和40年(1965)ごろに梅宮神社に合祀されました。伝承によれば、むかし筏流しで河原新田のあたりを通ると狼が出没し筏師を悩ませたことから、山神を祀ったと言われています。

天狗地蔵(てんぐじぞう)飯能市山手町・飯能幼稚園舎内

 むかし、「天狗小僧(てんぐこぞう)」と呼ばれた、人並みはずれて身軽な上に手先が器用で賢い子どもがいました。天狗小僧は河原町の筏宿(いかだやど)の1つ「うろこ屋」によく出入りしていて、そこに来る筏師たちと仲良くなり、時々筏に乗せてもらい、江戸まで行っていました。
 ある夏の大水の日、筏の上で遊んでいた子どもを乗せたまま、筏の綱が切れて濁流に飲み込まれそうになったとき、天狗小僧が川に飛び込んで子どもを助けました。しかし、小僧は後から流れてきた大きな筏に押しつぶされ、川の中に姿を消してしまいました。
 人々は小僧の冥福を祈るために川の見える小高いところにお地蔵様をたてたといいます。
 また、観音寺境内には筏師たちが奉納した手洗石(てあらいいし)も残されています。

写真)天狗地蔵

手洗石

手洗石

明光寺本堂(みょうこうじほんどう)狭山市根岸

明光寺本堂

 この本堂は明治初期に焼失したものを明治14年(1881)に再建しました。当時、高麗郡上赤工村(かみあかだくみむら 現飯能市)の東演寺が廃寺となっており、小瀬戸村(こせどむら)の大工安藤直右衛門がこの廃寺本堂の移築を金300円で引き受け、材料を筏に組んで入間川を下り、笹井(ささい)付近の河原で引き上げ、再建したのが現在の本堂と言われています。

 このページは平成16年度に開催した特別展「筏師が見た入間川―その流域の今昔―」での資料をもとに作成しました。詳しい内容については入間川4市1村合同企画展「入間川再発見!」展示図録をご参照ください。

お問い合わせ

飯能市教育委員会教育部郷土館

電話: 042-972-1414 ファクス: 042-972-1431

お問い合わせフォーム